自分もこういう傾倒し易い性格だけどなぜ宗教に入ってないのか考えたとき ふと大学の卒業制作で着想した「死の練習」って概念を思い出すことがある

「死の練習」ってのが何を意味するか今も自分で捉えきれてないけど祖父が死んだときベッドで手を握ってて最期に声をかわして冷たく固くなってくのを感じたこととかグロ動画見て今際の際に人がどんな顔するのか何を見てるのか考えたりとかそういう経験や知見を積み重ねながら自分自身の死に対する練習として生きていくことで 自分が死んで消えて無くなってしまうことから目を背けないよう冷静になれることがあるから引き摺り込まれないんじゃないかなと思う