浜松のおじいちゃんから聞いたおいたち

三重で生まれて五六年港町で暮らす。兄弟はいなかったがいとこらと兄弟のように遊び、暮らした。お母さんが結核にかかっていたため治療として名古屋に移り住み、やがて小学校にあがる手前あたりでお母さんが亡くなって叔母さんに育てられる。その後工廠として軍隊に徴用されて大砲などを作っていたが志願して海軍に。航空隊の一員として5 7週間の訓練を受けてはじめて単独で飛行をしたとき感動した。海軍の飛行機は陸軍と違って艦載機として三点着陸をしなければならない。航空母艦から離陸する時は船を風に向かわせ、風向きと船の受ける風とを合力させて艦載機を飛ばす。それから木更津に赴任したときは東京湾の上空を飛んで、スタジアムの上に来ちゃって慌てて引き返したりした。航空隊や訓練校の仲間はほとんどが戦死してしまった。それでも89歳のいまでも、海軍の名簿なりから文通しているひとが三人くらいはいる。戦争が終わってから名古屋に帰ったが、住んでいた中心地をはじめとして空襲でほとんどが焼け野原になってしまっていて、家もなくなっていたし、知り合いもほとんどが散り散りになってしまった。親友も好きだった娘もみんなが。お
父さんはやがて後妻さんを迎え、おじいちゃんといっしょに板金屋をはじめるが、やがて税金が高くなってうまくいかなくなり、おじいちゃんは警察予備隊に入隊して航空隊の教官を務めたり、立川に赴任して米軍の仕事を手伝ったりした。